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2006年10月31日

キャッツ!ニャー! キャッツ!ニャー! キャッツ!ニャー!

というわけで『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』を見た。

ドラマ(今回は映画だけれども)にしては、あり得ないくらいに情報量過剰な内容なのも相変わらずで、「こうくるかー」とかうなずいていた。

で。
気になったことが一つ。

むちゃくちゃな展開なようで、ラストできっちり着地しているところに感心して、それからどうして着地に感心したのか気になった。

伏線の使い方かな、とか考えてみた。
ミステリィがほんのり好きな竹田としては、伏線は状況の補強に加えて驚きがあることが肝心だと思っている。思っていた。
けれども。『木更津キャッツアイ』で着地のために回収した伏線は、「あーこんなんあったね」くらいのものだった(や、氣志團がアレするのでそれなりの衝撃はあるものの)。

伏線が回収されると、そのハマり具合に驚く。唐突感もない。事前に伏線準備→回収の手順を踏むだけで、それなりに納得できてしまう。前に用意しておいたから、使ってもそんな不自然ではない、と思えるようだ。

伏線回収に至るまでの流れとか見せ方は肝心だけれども、もっと伏線は何重にも用意して初めて意味をなす、ミステリィ的なものが伏線と信じていたので、先入観が崩れた。

『状況の説得力発生システム』くらいの位置づけで伏線の設置→回収を使ってもいいのかもしれない。今度実践してみる。きっと。いつか。

2006年10月28日

さう

http://www.nimaigai.com/howto.html

さう脳でした。いいのか悪いのか。

2006年10月25日

大切な…、ことを…、忘れていた…

インターネットラジオを聞くようになってからいくらかたった。

『うたわれるものらじお』が有名らしい。
ならそれ聞けばいいじゃんとは思う。
けれど有名と聞くと「ロックユー!」と反体制的な態度を示したくなるので、未だに冬眠してしまった『ねがらじ…』を繰り返し聞いている。未だに『ねがらじ…』を超える面白さのラジオ番組に出会わない。どうしてだ。他のラジオを探したことがないからか。

で。
『ねがらじ…』を聞くことで人生のHPを回復させているのだけれども、気がつくとねがらじ語が身に付いてしまっていた。

具体的には、語尾に『…』がつくようになってしまっていた。
基本的に(応用的にも)考え事をすると独り言が異様に増える不審者なのだけれど、「ええと…、これは…、こうなるから…」とどこまでも歯切れ悪くなってゆく。

どんどんローレグみたくテンションがずり下がってゆく。末期になりつつある。でも、ローレグと違ってテンション低いオスの風体なんか価値…、ない…、よね。でもいいや…、楽しいし…。と自分に言い聞かせているとほんのり幸せな気分になったりならなかったり…、する。

こんなことを早朝に考えている自分に気がついた。
すきま風が…、こころに…、しみる…。

2006年10月23日

~で判断します

20061023.jpg

というわけでタアモさんの2作目『少女のメランコリー』入手。
って、また話題が少女マンガ話だ。けれど気にし(略)。

このマンガに出てくるキャラクタは、みんな口元が猫っぽいのに全体を見ると子犬チックで、眺めているだけで胸がキュンキュンする。

あとココ重要なのが鼻の穴の形。竹田はマンガの善し悪しの一部をキャラクタの鼻の穴の形で判断したりする。特に理由があるわけではないのだけれども、気がついたらそうしている自分に気がつく。ぞっとする。嘘。いい加減この性癖いや習慣を改めようと思う。これも嘘。

知らないマンガの表示を見て、『鼻の穴の形がいいなぁ』と思って手に取った本はだいたいアタリだったりするため、この性癖(もういいやコレで)が継続しているモノと思われる。
って、文字にしてみると嫌な判断基準だなぁ。

マンガとか描いている人に『鼻の穴の形がいいので買ったら面白かったです』と言ったらどんな反応するんだろう。一度聞いてみたいところ。これは本当。

還暦を迎えるまでに実現するとここに誓ってみる。

2006年10月22日

骨のお話

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好き少女マンガの一つ『カラクリオデット』の2巻が出たので読んだ。って、立て続けに少女マンガネタだ。しかし気にしない。

で。
『カラクリオデット』は面白さがわかりやすいなぁ、とか考えた。
『ロボットが人間の心を理解しようと試みる』、古典SFから数百冊は例があげられそうなテーマだ。
けれども、眼がいった場所はそこではなくて、『話の骨格となる部分が一言で言い表せるモノは面白さがわかりやすくなる』効果の部分。

このあたりをきっちり造りこんでおくと、焦点がブレずに内容がわかりやすく安定するため、人のため(受け手)でもあり自分(送り手)のためにもなるんだろうなぁ、とか。
技術的にはエラー処理に近い、防御的な考え方なのだろうなぁ。

今更こんな基礎かよー、とか思われそうだけれども。基礎は何度立ち返ってもそれなりの価値があるということで一つ。どうか。

で。
2巻に入ってからというもの、キャラクタのコメディ顔がまんまるくなってきつつある。洋子たんなんか、特に。だがそれがいい。ほんのり興奮する。嘘。というのが嘘。そして今。

2006年10月21日

不覚を取ったった

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好き少女マンガであるところのタアモさんの最新刊『あのことぼくのいえ』を購入。
胸をキュンキュンゆわしつつ読み終えた。

で。
初コミックスであるところの『初恋ロケット』からだいぶ時間が過ぎていたので筆の遅い人なのかなと思いつつ後書きマンガそして既刊紹介まで読み進めると。

2作目、『少女のメランコリー』の紹介ページが。

紹介ページを見つけたときほど、己の不覚具合を呪ったことはない。2006年10月第4週史上ナンバーワンの衝撃。
すべてを投げ出して近所の書店に向かったものの、『少女のメランコリー』だけがない。この世に絶望した。何もかもがどうでもよくなった。『あのことぼくのいえ』と一緒に買った『シグルイ7』を読み返してショックを紛らわすことにした。そして今。

2006年10月19日

ノスタルジィのせいではないのかもしれない

参照:
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2006/10/13/index.php

「第一世代は第二世代に勝てない」というキーワードがついさっきまで引っかかっていた。昨日からずっと。

で。
友達さんや知り合いさんとゲームの話をして、概ねの共通点である「昔のゲームの方が面白かった」。
自分も同意なのだけれども、どこかひっかかっていた。技術は現在の方が格段に進歩しているのに、ほぼ全員(当社比)が昔の方が良かったと即答する現実。これはどういうことか。

発想の差だろうなぁ、当たり前の結論を改めて考えていた。
面白いものはおおむね昔の時点に揃ってしまっていて、今のゲームを見ても、『既存の面白いモノ(第一世代の発想)の新しい組み合わせ』に見えてしまうためなのかにゃー、とか。
『アイデアのつくり方』的には正しいのだけれども。

『コピーのコピーのコピー。引用の引用の引用だ』とかファイトクラブ(原作)の一文を連想してみた。第一世代の自由さを取り戻すためのコストはいかほど、とか考えて、ほんのり気が重くなったり、した。